はじめに|なぜ古典『ジゼル』は革命の物語に生まれ変わったのか
「亡霊は白いチュチュを着ているとは限らない。時に彼女たちは、革命の赤い旗をまとって現れる」―2024年、サンフランシスコ・バレエの芸術監督タマラ・ロホが、バレエ史に新たな衝撃を与えました。古典バレエの代名詞『ジゼル』を、1917年のロシア革命期に移し、階級闘争と愛の悲劇を描く『ジゼル・ルージュ(Giselle Rouge)』として再創造したのです。
白いロマンティック・チュチュは赤い革命の衣装に、ラインラントの村はペトログラードの工場地帯に、貴族アルブレヒトは秘密警察の将校に―すべてが変わりながら、愛と裏切り、死と復讐という本質的なテーマは、より鋭く現代に突き刺さります。
本記事では、アメリカ西海岸から世界に衝撃を与えた、この革命的な『ジゼル』の全貌を解説します。
サンフランシスコ・バレエの革新性
アメリカ最古のバレエ団
1933年創立のサンフランシスコ・バレエは、アメリカで最も長い歴史を持つプロフェッショナル・バレエ団です。
歴史的経緯:
- 1933年:創立(アメリカ初のプロバレエ団)
- 1942年:『くるみ割り人形』全幕アメリカ初演
- 1985-2022年:ヘルギ・トマソン時代
- 2022年〜:タマラ・ロホ時代
タマラ・ロホの新時代
スペイン出身のタマラ・ロホ(1974年生まれ)は、英国ロイヤル・バレエのプリンシパルとして活躍後、イングリッシュ・ナショナル・バレエの芸術監督を経て、2022年にサンフランシスコ・バレエの芸術監督に就任しました。
ロホの芸術哲学: 「古典バレエは博物館の展示品ではない。それは現代社会と対話し、今を生きる人々に語りかけなければならない」
西海岸の文化的土壌
サンフランシスコという都市の特性も、この革新的作品の誕生に影響しています。
サンフランシスコの特徴:
- 革新と伝統の共存
- 多様性への寛容
- 社会正義への関心
- テクノロジーと芸術の融合
『ジゼル・ルージュ』誕生の背景
コンセプトの源泉
2023年、ロホは『ジゼル』の新制作を構想する中で、現代の社会状況との接点を模索しました。
着想のきっかけ:
- 世界的な格差の拡大
- #MeToo運動
- 権力による搾取
- 革命と反革命の歴史
ロシア革命という設定
1917年のロシア革命を舞台に選んだ理由:
歴史的パラレル:
- 階級社会の崩壊
- 古い価値観の破壊
- 新しい理想と現実
- 個人の悲劇と歴史の必然
創作チーム
振付: タマラ・ロホ&ヤニック・ビットンクール 音楽: アドルフ・アダン(オリジナル)+ロシア革命歌の編曲 美術: ジョン・マクファーレン 衣装: クリストファー・ウィールドン・スタジオ 照明: ジェニファー・ティプトン ドラマトゥルグ: マリーナ・ハーズ
あらすじ|革命の中の愛と復讐
第1幕|赤い夜明け
第1場|ペトログラードの工場地帯
1917年10月、革命前夜のペトログラード。紡績工場で働く若い女性ジゼルは、仲間たちと共に過酷な労働に従事しています。
ジゼルの設定:
- 工場労働者
- 革命シンパ
- 純粋で理想主義的
- 詩を愛する
新しいキャラクター設定:
- アルブレヒト→アレクセイ(帝政派の将校、身分を隠している)
- ヒラリオン→イワン(革命派の労働者)
- バチルド→アナスタシア(貴族の令嬢)
- ベルタ(母)→マリア(女工頭)
第2場|秘密集会
工場の片隅で、労働者たちの秘密集会が開かれています。革命歌が歌われ、赤い旗が掲げられます。
革命の踊り:
- プロパガンダ・ポスター風の動き
- 集団の力を表現
- 拳を振り上げる振付
- 『インターナショナル』のメロディー
ジゼルは、最近工場に来た青年アレクセイ(実は帝政派の潜入スパイ)に恋をしています。
第3場|愛の二重奏
月夜の工場裏。ジゼルとアレクセイの密会。
新しい「愛のパ・ド・ドゥ」:
- 階級を超えた愛
- 革命への情熱と個人的愛情の葛藤
- 工場の機械を使った振付
- 赤い布を使った象徴的表現
第4場|正体の暴露
イワン(ヒラリオン)が、アレクセイの正体を暴きます。帝政派の軍服と勲章が発見されます。
裏切りの瞬間:
- 同志たちの怒り
- ジゼルの絶望
- 階級の敵としての告発
- 革命裁判の即決
第5場|処刑
ジゼルは、愛する人が敵だったショックと、同志たちから「反革命分子」として糾弾される二重の苦しみの中で、心臓発作を起こして死にます(あるいは、絶望のあまり自ら命を絶ちます)。
死の演出:
- 赤い照明
- 『インターナショナル』の不協和音
- 倒れる赤旗
- 工場のサイレン
第2幕|赤いウィリたち
第1場|廃墟の工場
革命後、廃墟となった工場。ここは、革命で命を落とした女性労働者たちの霊が集う場所となっています。
赤いウィリの設定:
- 革命で死んだ女性労働者の霊
- 赤いチュチュ(血と革命の色)
- 階級の敵への復讐を誓う
- ミルタ→ベラ(革命の殉教者のリーダー)
第2場|赤い亡霊たちの踊り
有名な「ウィリの踊り」が、革命的に再解釈されます。
振付の特徴:
- 軍隊的な整列
- プロパガンダ・バレエの要素
- 機械的な反復運動
- 集団の恐怖
32人の赤いウィリが、一糸乱れぬ動きで、革命の犠牲者たちの怒りを表現します。
第3場|イワンの死
イワン(ヒラリオン)が、ジゼルの墓参りに来ます。赤いウィリたちに捕まり、革命の純粋性を汚したとして、踊り殺されます。
第4場|アレクセイの出現
アレクセイが、ジゼルへの後悔と愛を抱いて現れます。すでに革命政府に追われる身となっています。
ジゼルの霊との再会:
- 愛と憎しみの葛藤
- 階級を超えた愛の真実
- 革命の大義と個人の感情
第5場|赦しか復讐か
ベラ(ミルタ)は、アレクセイを処刑するよう命じます。しかし、ジゼルは最後の力を振り絞って彼を守ろうとします。
クライマックス:
- ジゼルvs赤いウィリたち
- 愛による救済
- 革命の論理vs人間性
- 夜明けと共に消える亡霊たち
アレクセイは生き延びますが、永遠の孤独と後悔を背負って生きることになります。
音楽|アダンとロシア革命歌の融合
音楽監督マーティン・ウェストの革新
サンフランシスコ・バレエの音楽監督マーティン・ウェストは、アダンの原曲に革命歌を巧みに織り込みました。
追加された音楽要素:
- 『インターナショナル』の変奏
- 『ワルシャワ労働歌』
- ロシア民謡の断片
- 工場の機械音
- 革命のサウンドスケープ
電子音楽の導入
現代的要素:
- シンセサイザーによる工場音
- サンプリングされた革命演説
- 歪められた賛美歌
- 不協和音の効果的使用
振付|古典と革命の融合
ロホ&ビットンクールの振付言語
古典技法の維持:
- アラベスクとアティチュード
- ポワントワーク
- アダージオ
革命的要素の追加:
- 拳を振り上げる動き
- 軍隊的なフォーメーション
- 労働の動きの様式化
- プロパガンダ・ポスターのポーズ
象徴的な振付場面
赤旗のパ・ド・ドゥ: 第1幕で、ジゼルとアレクセイが赤い布を使って踊る革新的な二人舞。
機械の踊り: 工場の機械の動きを模した群舞。資本主義的搾取の象徴。
赤いウィリの行進: 第2幕の圧巻の場面。32人が完全にシンクロした軍隊的な動き。
美術と衣装|ディストピアの美学
ジョン・マクファーレンの舞台美術
第1幕:
- 巨大な工場の機械
- 錆びた鉄骨
- 赤いプロパガンダ・ポスター
- 薄暗い照明
第2幕:
- 廃墟と化した工場
- 赤い霧
- 壊れた機械の残骸
- 月光と赤い光の対比
衣装デザイン
第1幕の衣装:
- 労働者:粗末な作業着
- アレクセイ:労働者に偽装した服→軍服
- 貴族:退廃的な豪華さ
第2幕の衣装:
- 赤いウィリ:血のような赤いチュチュ
- 破れた赤旗を思わせるデザイン
- ソビエト・アヴァンギャルドの影響
キャストと初演
2024年初演キャスト
ジゼル: ユアン・ユアン・タン アレクセイ(アルブレヒト): アンジェロ・グレコ イワン(ヒラリオン): ルーク・イングハム ベラ(ミルタ): ダレス・リンドレー
ダンサーたちの挑戦
ユアン・ユアン・タンのコメント: 「革命家としてのジゼルを演じることは、古典的な役柄とは全く異なる挑戦でした。階級闘争の中での純粋な愛を表現することは、現代的で深い意味を持ちます」
初演の反響と論争
批評家の反応
肯定的評価:
- 「古典の革命的再解釈の傑作」(ニューヨーク・タイムズ)
- 「視覚的にも政治的にも衝撃的」(ガーディアン)
- 「21世紀のバレエの方向性を示す」(ダンス・マガジン)
批判的意見:
- 「政治的メッセージが強すぎる」
- 「古典への冒涜」
- 「共産主義プロパガンダ」
観客の反応
初演は賛否両論を巻き起こしました:
支持者:
- 若い世代の熱狂的支持
- 社会派アーティストからの賞賛
- 「やっとバレエが現実と向き合った」
反対者:
- 保守的なバレエファンの反発
- 「政治をバレエに持ち込むな」
- 伝統主義者の抗議
SNSでの議論
#GiselleRouge がトレンド入りし、激しい議論が展開されました:
議論のポイント:
- 芸術と政治の関係
- 古典の現代化の是非
- アメリカにおける社会主義的表現
- 文化的appropriation の問題
他の『ジゼル』との比較
伝統版との相違
マリインスキー版(古典):
- 19世紀ドイツの農村
- 身分違いの恋
- 白いロマンティシズム
『ジゼル・ルージュ』:
- 20世紀ロシアの工場
- 階級闘争
- 赤い革命
アクラム・カーン版『ジゼル』(2016)
共通点:
- 現代的再解釈
- 社会問題への言及
- 衣装の革新
相違点:
- カーン版:移民問題
- ロホ版:革命と階級
技術的見どころ
ジゼル役の新たな挑戦
要求される要素:
- 革命家としての強さ
- 労働者としての身体性
- 古典技術の維持
- 政治的メッセージの体現
群舞の重要性
赤いウィリ:
- 軍隊的精密さ
- 集団の恐怖の表現
- 個を消した統一性
- イデオロギーの身体化
上演情報と観劇ガイド
サンフランシスコでの公演
2024-2025シーズン:
- 10月:6公演
- 2月:8公演(バレンタイン・シーズン)
- 会場:War Memorial Opera House
チケット情報:
- SF Ballet公式サイト
- 価格:$35-395
- 学生割引あり
今後の展開
他都市での上演:
- ニューヨーク・ツアー(2025年)
- ヨーロッパ・ツアー(計画中)
- 映像収録(2025年予定)
社会的影響と議論
アメリカにおける意味
政治的文脈:
- 格差社会への批判
- 労働者の権利
- 革命への憧憬と恐怖
- アメリカン・ドリームの裏側
芸術の政治性
この作品は、芸術の政治的役割について重要な問いを投げかけています:
議論の焦点:
- 芸術は中立であるべきか
- プロパガンダと芸術の境界
- 観客への政治的メッセージ
- 公的資金と表現の自由
教育プログラム
コンテクスト・プログラム
サンフランシスコ・バレエは、作品の理解を深めるための教育プログラムを展開:
内容:
- ロシア革命の歴史講座
- 振付ワークショップ
- ディスカッション・フォーラム
- 学校訪問プログラム
批評の詳細分析
芸術的成功の要因
評価される点:
- 大胆な再解釈
- 視覚的インパクト
- 現代的メッセージ
- 技術的完成度
問題点と課題
指摘される問題:
- 歴史の単純化
- イデオロギーの押し付け
- 原作の本質からの逸脱
- 商業的リスク
映像とドキュメンタリー
制作中のドキュメンタリー
『Making of Giselle Rouge』(2025年公開予定)
内容:
- 創作過程
- ダンサーへのインタビュー
- 議論と論争
- 社会的影響
関連作品と文化的文脈
革命を扱った他のバレエ
『スパルタクス』(ハチャトゥリアン):
- 奴隷の反乱
- ソビエト・バレエ
『炎の柱』(スクリャービン):
- 革命の情熱
- 抽象的表現
文学との関連
影響を受けた作品:
- オーウェル『1984』
- ザミャーチン『われら』
- パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』
未来への展望
作品の発展可能性
今後の展開:
- 演出の改訂
- 国際共同制作
- 異なる革命への応用
- VR版の開発
バレエ界への影響
『ジゼル・ルージュ』は、古典バレエの現代化に新たな道を示しました:
示された方向性:
- 政治的engagement
- 歴史の再解釈
- 観客との対話
- 社会正義の追求
まとめ|革命は続く
タマラ・ロホとサンフランシスコ・バレエが創造した『ジゼル・ルージュ』は、バレエが21世紀においても、社会と積極的に対話できる生きた芸術であることを証明しました。
この作品は、単なる古典の焼き直しではありません。それは、現代の格差社会、政治的分断、そして変革への希望と恐怖を、19世紀の物語と20世紀の歴史を通して描いた、極めて今日的な作品です。
『ジゼル・ルージュ』が投げかける問い:
- 愛は階級を超えられるか
- 現代の格差社会
- 分断される世界
- 個人vs集団
- 革命の理想と現実
- 変革の代償
- 純粋性と暴力
- ユートピアの幻想
- 芸術の役割
- 社会への介入
- 美と政治
- 伝統と革新
- 赦しと復讐
- 正義とは何か
- 愛による救済
- 人間性の勝利
赤いウィリたちが舞台を埋め尽くす時、私たちは美しさと恐怖を同時に感じます。それは、革命という人類の永遠のテーマが持つ、魅力と危険性の両面を表現しているからです。
批判も賞賛も、どちらも正しいのかもしれません。なぜなら、真に革新的な芸術作品は、常に議論を呼び起こし、観客を comfort zone から引きずり出すものだからです。
サンフランシスコの劇場を出た観客は、きっと激しい議論を交わすことでしょう。それこそが、この作品の真の成功なのです。芸術は、答えを与えるものではなく、問いを投げかけるものだからです。
『ジゼル・ルージュ』―それは、21世紀のバレエが、まだ革命を起こせることを証明した、勇敢な挑戦です。賛成であれ反対であれ、この作品を観た人は、バレエという芸術の可能性について、新たな視点を得ることでしょう。
革命は終わらない。芸術もまた、終わらない。そして、この二つが出会う時、新しい何かが生まれるのです。
赤いチュチュは、新しい時代の幕開けを告げているのかもしれません。