はじめに|なぜ今『ホイップクリーム』なのか
2017年春、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場で、一つの「失われた傑作」が蘇りました。1924年にウィーンで初演され、その後忘れ去られていた『ホイップクリーム(Schlagobers)』。この甘美で奇想天外なバレエを、現代最高の振付家の一人アレクセイ・ラトマンスキーが、アメリカン・バレエ・シアター(ABT)のために完全に再創造したのです。
お菓子の王国、擬人化されたコーヒーやお茶、踊るペストリー、そして少年の夢と冒険―この作品は、単なる子供向けのファンタジーではありません。第一次世界大戦後のウィーンが生んだ、甘美な逃避と辛辣な風刺、夢と現実が交錯する、大人も魅了される芸術作品です。
本記事では、リヒャルト・シュトラウスの音楽、ラトマンスキーの振付、そして21世紀に蘇った『ホイップクリーム』の全貌を徹底解説します。
作品の歴史|1924年ウィーンから2017年ニューヨークへ
オリジナル版の誕生(1924年)
『ホイップクリーム』(原題:Schlagobers)は、1924年5月9日、ウィーン国立歌劇場で初演されました。
創作の背景: 第一次世界大戦後のウィーンは、帝国の崩壊と経済的困窮の中にありました。しかし、文化的には最後の輝きを放っていた時代でもありました。
オリジナル版スタッフ:
- 作曲:リヒャルト・シュトラウス
- 振付:ハインリヒ・クレーラー
- 美術:アーダ・ニグリン
- 指揮:リヒャルト・シュトラウス(初演)
初演の評価: 批評家からは「軽薄」「時代錯誤」と酷評されましたが、観客には人気がありました。しかし、経済的理由と政治的変化により、1920年代末には上演されなくなりました。
忘却の時代(1930-2016)
ナチス時代、シュトラウスの立場は複雑でした。『ホイップクリーム』は「退廃的」とされ、完全に忘れ去られました。戦後も、この作品が復活することはありませんでした。
忘却の理由:
- 楽譜と振付の散逸
- 大規模な舞台装置の必要性
- 時代遅れとみなされた内容
- シュトラウスの他作品の陰
アレクセイ・ラトマンスキーの発見
2014年、ABTの常任振付家アレクセイ・ラトマンスキーは、ウィーンでこの作品の存在を知ります。
ラトマンスキーの動機: 「失われた傑作を蘇らせることは、考古学者が遺跡を発掘するようなもの。しかし、単なる復元ではなく、21世紀の観客のために再創造する必要があった」
リサーチ過程:
- ウィーン国立歌劇場アーカイブ調査
- 当時の写真・スケッチの収集
- 新聞評・批評の分析
- シュトラウスの手紙・日記の研究
アレクセイ・ラトマンスキー|現代バレエの革新者
経歴と実績
アレクセイ・ラトマンスキー(1968年生まれ)は、ロシア出身で現在アメリカを拠点とする、世界で最も重要な振付家の一人です。
主要ポジション:
- ボリショイ・バレエ芸術監督(2004-2008)
- ABT常任振付家(2009-現在)
- ニューヨーク・シティ・バレエ客員振付家
代表作:
- 『明るい小川』(2003年)
- 『ロミオとジュリエット』(2017年)
- 『眠れる森の美女』(2015年)
- 『四季』(2006年)
振付スタイルの特徴
ラトマンスキーの美学:
- 古典技法の現代的解釈
- 音楽性の重視
- 物語性と抽象性の融合
- ユーモアと詩情
- 歴史的正確性への敬意
『ホイップクリーム』2017年版|甘美な夢の世界
あらすじ|少年の奇想天外な冒険
第1幕|ウィーンの菓子店
場面設定: 1920年代のウィーン、とある高級菓子店。ショーウィンドウには美味しそうなケーキやペストリーが並んでいます。
第1場:菓子店 少年(ボーイ)が菓子店にやってきます。目の前に広がる甘い誘惑に心を奪われた少年は、次々とお菓子を食べ始めます。ホイップクリームたっぷりのケーキ、チョコレート、マジパン…食べ過ぎた少年は、ついに気を失ってしまいます。
第2場:夢の始まり 気を失った少年の夢が始まります。菓子店が魔法のように変化し、お菓子たちが生命を持って踊り始めます。
登場するキャラクター:
- プリンセス・ティー(お茶の精)
- プリンス・コーヒー(コーヒーの王子)
- ホイップクリーム隊
- シュガープラム(砂糖菓子)
- マジパンの兵士たち
- ジンジャーブレッド・メン
第3場:お菓子の王国への招待 美しいプリンセス・ティーが現れ、少年をお菓子の王国へと誘います。プリンス・コーヒーと共に、華やかな行進が始まります。
第2幕|お菓子の王国
第1場:王国の祝宴 お菓子の王国では、少年を歓迎する盛大な祝宴が開かれています。
ディヴェルティスマン(余興):
- ホット・チョコレートの踊り
- スペイン風の情熱的なダンス
- カスタネットのリズム
- プラリネの踊り
- フランス風の優雅なワルツ
- 繊細で甘美な動き
- ペパーミント・スティックの踊り
- 鋭角的でスピーディーな動き
- ミント色の衣装
- マジパン・フィギュアの踊り
- コミカルで人形的な動き
- カラフルな衣装
- ドン・ズッカーロ(砂糖の殿様)のヴァリエーション
- 威厳と滑稽さの融合
- アクロバティックな技
第2場:プリンセス・ティーとプリンス・コーヒーのパ・ド・ドゥ クライマックスは、プリンセス・ティーとプリンス・コーヒーの優雅なパ・ド・ドゥ。シュトラウスの甘美な音楽に乗せて、ロマンティックな踊りが展開されます。
第3場:ボーイのヴァリエーション 少年も勇敢に踊りに加わります。子供らしい無邪気さと、冒険への憧れが表現されます。
第4場:混乱と崩壊 しかし、食べ過ぎの影響が現れ始めます。お菓子の王国に混乱が生じ、すべてが渦を巻いて崩れ始めます。悪夢のような光景の中、少年は必死に逃げようとします。
第3幕|目覚めと救済
第1場:病院 少年は病院のベッドで目を覚まします。心配そうな医師と看護師に囲まれています。
第2場:プリンセス・ティーの出現 すると、不思議なことに、夢で出会ったプリンセス・ティーが現実世界に現れます。彼女は優しく少年を慰め、健康的な生活の大切さを教えます。
第3場:フィナーレ 回復した少年は、プリンセス・ティーや医療スタッフと共に喜びの踊りを踊ります。節度の大切さを学んだ少年の、新しい人生の始まりを祝福して幕となります。
音楽|リヒャルト・シュトラウスの隠れた傑作
シュトラウスとバレエ
リヒャルト・シュトラウス(1864-1949)は、オペラと交響詩で知られていますが、『ホイップクリーム』は彼の唯一の本格的バレエ作品です。
作曲の動機:
- ウィーン国立歌劇場からの委嘱
- 軽やかな作品への挑戦
- 経済的必要性(インフレーション時代)
音楽的特徴
スコアの特色:
- ウィンナ・ワルツの伝統
- 後期ロマン派の和声
- 巧みなオーケストレーション
- ライトモティーフの使用
- ユーモアと皮肉
主要な音楽ナンバー:
- 序曲
- 華やかで祝祭的
- お菓子のテーマの提示
- ティーとコーヒーのワルツ
- シュトラウス家の伝統を継承
- 優雅で洗練された旋律
- ホイップクリームのギャロップ
- 軽快でユーモラス
- 泡立つような音楽
- 夢のパッサカリア
- 荘重で幻想的
- バロック形式の現代的解釈
2017年版の音楽演奏
演奏:
- 指揮:デイヴィッド・ラマーシュ
- オーケストラ:メトロポリタン歌劇場管弦楽団
- 録音:商業録音も存在
振付|ラトマンスキーの創造性
振付の特徴
ラトマンスキーは、1920年代のスタイルを研究しながら、現代的な感覚で再創造しました。
振付言語:
- クラシック・バレエの基礎
- 1920年代のダンススタイル(チャールストン、フォックストロット)
- 表現主義的要素
- キャラクター・ダンス
- マイムの効果的使用
主要な振付場面
プリンセス・ティーのヴァリエーション:
- 流れるような動き
- 東洋的な腕の使い方
- 繊細なポワントワーク
プリンス・コーヒーのヴァリエーション:
- 力強いジャンプ
- エレガントなピルエット
- 貴族的な佇まい
ホイップクリーム隊の群舞:
- 泡のような軽やかさ
- 渦巻くフォーメーション
- ユーモラスな動き
少年の踊り:
- 子供らしい無邪気さ
- 冒険心の表現
- 成長の過程
歴史的要素の取り入れ
1920年代の要素:
- アール・デコの美学
- ドイツ表現主義
- ウィーンのカフェ文化
- ジャズ・エイジの影響
美術と衣装|マーク・ライデンの幻想世界
美術家マーク・ライデン
現代アメリカの画家マーク・ライデンが、舞台美術と衣装を担当しました。
ライデンの特徴:
- ポップ・シュルレアリスム
- 甘美さと不気味さの共存
- 精密な描写
- ノスタルジックな色彩
舞台美術
第1幕:菓子店
- 巨大なショーケース
- アール・ヌーヴォー風の装飾
- 金色とパステルカラー
第2幕:お菓子の王国
- キャンディーケインの柱
- ホイップクリームの雲
- 巨大なケーキの城
- 虹色の照明効果
第3幕:病院
- 白を基調とした清潔な空間
- 現実と夢の境界の曖昧さ
衣装デザイン
特徴的な衣装:
- プリンセス・ティー
- 薄緑とゴールドのチュチュ
- 茶葉をイメージした装飾
- 東洋的なティアラ
- プリンス・コーヒー
- 深い茶色のベルベット
- 金の装飾
- コーヒー豆のモチーフ
- ホイップクリーム隊
- 純白のふわふわした衣装
- 泡のような質感
- 軽やかな素材
- お菓子たち
- カラフルで個性的
- 食べ物の特徴を擬人化
- ユーモラスなデザイン
キャスト|ABTのスターたち
初演キャスト(2017年)
主要キャスト:
- プリンセス・ティー:ステラ・アブレーラ / サラ・レーン
- プリンス・コーヒー:ダニール・シムキン / コリー・スターンズ
- ボーイ:various young dancers
- ドン・ズッカーロ:ブレイン・ベル
歴代の名演
2017年以降、多くのダンサーがこの作品を演じています:
プリンセス・ティー:
- ヘー・シャオ
- デヴォン・トゥサー
- キャサリン・ハーリン
プリンス・コーヒー:
- ハーマン・コルネホ
- ジェームズ・ホワイトサイド
- ジョゼフ・ゴラク
公演の記録と評価
初演の反響(2017年)
批評家の評価:
- 「ラトマンスキーの最も愉快で創造的な作品」(ニューヨーク・タイムズ)
- 「視覚的饗宴」(ワシントン・ポスト)
- 「大人も子供も楽しめる傑作」(ダンス・マガジン)
観客の反応:
- スタンディング・オベーション
- 子供たちの歓声
- SNSでの話題沸騰
受賞と評価
受賞歴:
- ブノワ賞ノミネート(2018年)
- Critics’ Circle Award(2017年)
上演記録
ABTでの上演:
- 2017年:世界初演(春シーズン)
- 2018年:再演
- 2019年:ツアー公演
- 2021年:コロナ後の復活公演
- 2024年:最新上演
作品の意義|なぜ今『ホイップクリーム』か
現代的な解釈
ラトマンスキー版『ホイップクリーム』は、単なる復元ではなく、現代的なメッセージを含んでいます:
テーマの現代性:
- 過剰消費社会への警告
- 子供の肥満問題
- ファンタジーの必要性
- 節度とバランス
文化史的価値
1920年代ウィーン文化の反映:
- 失われた帝国への郷愁
- カフェ文化の栄光
- 甘美な退廃
- モダニズムとの対立
バレエ史における位置づけ
意義:
- 失われた作品の復活
- レパートリーの拡大
- 家族向け作品の充実
- 振付遺産の継承
技術的見どころ
プリンセス・ティーの挑戦
技術的要求:
- 優雅さと軽やかさ
- 長時間の踊り
- 演技力
- パートナーリングの繊細さ
見せ場:
- 第2幕のヴァリエーション
- グラン・パ・ド・ドゥ
- マイムシーン
プリンス・コーヒーの要求
必要な技術:
- 高い跳躍力
- 優雅なポール・ド・ブラ
- 力強いピルエット
- 貴族的な存在感
群舞の重要性
ホイップクリーム隊:
- 完璧な統一性
- コミカルなタイミング
- 体力とスタミナ
観劇ガイド
ABTでの鑑賞
公演情報:
- 会場:メトロポリタン歌劇場(主に春シーズン)
- チケット:ABT公式サイト
- 価格:$35-350
おすすめの席:
- Orchestra(1階中央):全体が見渡せる
- Grand Tier(2階正面):舞台美術を楽しむ
- Family Circle(最上階):予算重視
家族での楽しみ方
子供連れのポイント:
- 6歳以上推奨
- 昼公演がおすすめ
- 事前にあらすじを説明
- お菓子の名前を覚える
予習のすすめ
- 音楽を聴く
- Spotifyでシュトラウスの音楽
- YouTubeでハイライト映像
- 1920年代ウィーンについて
- カフェ文化
- アール・デコ様式
- 歴史的背景
- ラトマンスキー作品の特徴
- 他作品の映像
- 振付スタイルの理解
映像と配信
映像作品
商業リリース:
- 2017年初演の記録(内部資料)
- ハイライト映像(YouTube)
- メトロポリタン歌劇場ライブビューイング(将来的可能性)
デジタル配信
オンライン視聴:
- ABT公式YouTubeチャンネル(抜粋)
- 期間限定配信(パンデミック中)
世界での上演
ABT以外での上演
現在のところ、『ホイップクリーム』はABTの専属作品ですが、将来的には他団での上演も期待されています。
興味を示している団体:
- ウィーン国立バレエ(発祥の地)
- 英国ロイヤル・バレエ
- オーストラリア・バレエ
日本での上演可能性
期待される展開:
- ABT来日公演での上演
- 日本のバレエ団による上演権取得
- 映像上映会
関連作品との比較
『くるみ割り人形』との関係
共通点:
- お菓子の王国
- 子供が主人公
- クリスマス・シーズン向け
- ファンタジー要素
相違点:
- より現代的なメッセージ
- 皮肉とユーモア
- 大人向けの要素
- 音楽スタイルの違い
ラトマンスキーの他作品
作風の比較:
- 『明るい小川』:ソビエト時代の風刺
- 『ロミオとジュリエット』:古典の新解釈
- 『四季』:純粋な音楽性
批評と議論
肯定的評価
評価される点:
- 視覚的豪華さ
- 音楽の素晴らしさ
- 家族で楽しめる内容
- 技術的完成度
批判的意見
指摘される問題:
- ストーリーの単純さ
- 過度な装飾性
- メッセージの曖昧さ
- 上演コストの高さ
作品の未来
今後の展望
期待される発展:
- 世界各地での上演
- 映像作品の制作
- 教育プログラムの展開
- 新演出の可能性
レパートリーとしての定着
『ホイップクリーム』は、『くるみ割り人形』に次ぐ、新たなホリデー・シーズンの定番となる可能性を秘めています。
まとめ|甘美な警告の物語
アレクセイ・ラトマンスキーが蘇らせた『ホイップクリーム』は、単なる懐古趣味の作品ではありません。それは、過去と現在、夢と現実、甘美さと苦さが絶妙にブレンドされた、21世紀のための新しい古典です。
この作品が示すもの:
- 芸術の継承と革新
- 失われた作品の創造的復活
- 伝統の現代的解釈
- 新しい古典の創造
- 多層的なメッセージ
- 子供への教育的内容
- 大人への風刺的視点
- 普遍的な人間性
- バレエの可能性
- 物語バレエの新展開
- 視覚芸術との融合
- 音楽遺産の活用
- 文化的対話
- ヨーロッパとアメリカ
- 過去と現在
- 高尚さと大衆性
リヒャルト・シュトラウスが1924年に蒔いた種が、約100年後にラトマンスキーによって美しい花を咲かせました。それは、時代を超えた芸術の生命力を証明する、素晴らしい成果です。
『ホイップクリーム』を観ることは、お菓子の王国への甘い旅であると同時に、私たちの生き方への優しい問いかけでもあります。過剰と節度、夢と現実、子供時代と大人の世界―これらの間でバランスを取ることの大切さを、この作品は楽しく、美しく教えてくれます。
ぜひ、ABTの『ホイップクリーム』を体験してください。マーク・ライデンの幻想的な美術、シュトラウスの甘美な音楽、ラトマンスキーの創造的な振付、そしてABTダンサーたちの素晴らしい踊り―すべてが融合した、忘れられない劇場体験となるはずです。
メトロポリタン歌劇場の豪華な空間で、ホイップクリームの泡のように軽やかで、でも後に残る深い味わいを持つこの作品を、心ゆくまでお楽しみください。
甘い夢の世界への扉は、いつでもあなたを待っています。