スカラ座バレエ『ラ・シルフィード』完全解説|ピエール・ラコット版が蘇らせたロマンティック・バレエの原点

はじめに|なぜ今『ラ・シルフィード』なのか

1832年3月12日、パリ・オペラ座で初演された『ラ・シルフィード』は、バレエ史に革命をもたらしました。マリー・タリオーニが宙を舞うような踊りで観客を魅了し、ロマンティック・バレエという新しい時代の扉を開いたのです。しかし、オリジナルの振付は失われ、長い間、この歴史的作品の真の姿は謎に包まれていました。

1972年、フランスの振付家ピエール・ラコットが、散逸した資料を丹念に研究し、オリジナルに限りなく近い形で『ラ・シルフィード』を復元。そして2024年、ミラノ・スカラ座バレエが、このラコット版に新たな息吹を吹き込み、21世紀の観客に向けて再提示しています。

本記事では、バレエの歴史を変えた『ラ・シルフィード』の真実と、スカラ座が見せる新たな解釈を徹底的に解説します。

『ラ・シルフィード』誕生の背景|ロマン主義の夜明け

1830年代のパリ

『ラ・シルフィード』が生まれた1830年代のパリは、激動の時代でした。

時代背景:

  • 1830年:七月革命
  • ブルジョワジーの台頭
  • 産業革命の進展
  • ロマン主義運動の最盛期

文化的環境:

  • ヴィクトル・ユーゴーの文学
  • ショパンのピアノ音楽
  • ドラクロワの絵画
  • 超自然的なものへの関心

フィリッポ・タリオーニの革命

振付家フィリッポ・タリオーニ(1777-1871)は、娘マリーのために『ラ・シルフィード』を創作しました。

タリオーニの革新:

  • ポワント(つま先立ち)技術の芸術的使用
  • 白いチュチュの導入
  • 超自然的存在の表現
  • 重力を否定する振付

マリー・タリオーニという現象

マリー・タリオーニ(1804-1884)は、バレエ史上最も重要なバレリーナの一人です。

マリーの特徴:

  • 驚異的な軽やかさ
  • エーテル的な存在感
  • 完璧なポワント技術
  • 聖女のようなイメージ

「タリオーニは踊るのではない、飛ぶのだ」と評されました。

作品の歴史|失われた傑作

初演とその後

1832年初演:

  • 場所:パリ・オペラ座
  • 振付:フィリッポ・タリオーニ
  • 音楽:ジャン・シュナイツホーファー
  • 主演:マリー・タリオーニ、ジョゼフ・マジリエ

初演は大成功を収め、ヨーロッパ中で上演されました。

ブルノンヴィル版の登場

1836年、デンマークの振付家アウグスト・ブルノンヴィルが、独自の版を創作。

ブルノンヴィル版の特徴:

  • 音楽:ヘルマン・レーヴェンショルド
  • より男性的な振付
  • デンマーク・スタイル
  • 現在最も上演される版

タリオーニ版の消失

19世紀末までに、オリジナルのタリオーニ版は完全に失われました。

消失の理由:

  • 振付記録システムの不在
  • 口伝による伝承の限界
  • 新版の登場
  • 資料の散逸

ピエール・ラコットの偉業|失われた振付の復元

ラコットという人物

ピエール・ラコット(1932-2023)は、19世紀バレエの復元に生涯を捧げた振付家です。

経歴:

  • パリ・オペラ座バレエ出身
  • 振付家として独立
  • バレエ考古学者
  • 歴史的作品の復元専門家

復元作業の過程

1970年代、ラコットは『ラ・シルフィード』復元に着手しました。

研究資料:

  • 当時の新聞批評
  • 版画・リトグラフ
  • ステパノフ記譜法の断片
  • 手紙・日記
  • 衣装デザイン画

復元の方法論:

  1. 歴史資料の収集・分析
  2. 19世紀のダンス・スタイル研究
  3. 音楽と振付の関係分析
  4. 当時の舞台慣習の研究
  5. 創造的推測による補完

1972年|復元版初演

初演情報:

  • カンパニー:パリ・オペラ座バレエ
  • 主演:ギスレーヌ・テスマー
  • 大成功を収める

スカラ座バレエの『ラ・シルフィード』

ミラノ・スカラ座の伝統

1778年創立のスカラ座は、世界最高峰のオペラハウスの一つです。

バレエ部門の歴史:

  • 1813年:バレエ学校創立
  • 19世紀:イタリア・バレエの中心
  • 20世紀:国際的カンパニーへ
  • 現在:マニュエル・ルグリ芸術監督

2024年新制作の特徴

スカラ座は、ラコット版を基に、独自の解釈を加えています。

新制作のポイント:

  • オリジナル音楽の完全復元
  • 最新の舞台技術
  • 若手ダンサーの起用
  • 現代的な心理描写

あらすじ詳細|スコットランドの悲恋

第1幕|現実世界

第1場|ジェームズの家

場面設定: スコットランドの農家。ジェームズとエフィーの結婚式の朝。

暖炉のそばで眠るジェームズ。その傍らに、白い衣装のシルフィード(空気の精)が現れ、愛撫するように踊ります。目覚めたジェームズは、その美しさに魅了されますが、シルフィードは煙突から消えてしまいます。

心理描写: ジェームズは夢か現実か分からず困惑。しかし、シルフィードの美しさが忘れられません。

第2場|結婚式の準備

婚約者エフィー、その友人たち、ジェームズの母親が登場。結婚式の準備が進められます。

グーンのキャラクター: グーンは、エフィーを密かに愛する農夫。ジェームズへの嫉妬を抱いています。

第3場|占い師マッジの予言

老婆マッジ(魔女)が現れ、若い娘たちの手相を見ます。

不吉な予言:

  • エフィーはジェームズと結婚しない
  • グーンと結ばれる運命
  • ジェームズは激怒してマッジを追い出す

第4場|スコットランドの踊り

結婚式の祝いの踊り。

民族舞踊:

  • リール(スコットランドの伝統舞踊)
  • バグパイプの音楽
  • タータンチェックの衣装

第5場|シルフィードの再登場

踊りの最中、ジェームズだけに見えるシルフィードが現れます。

ジェームズの葛藤:

  • 現実の幸せ(エフィー)
  • 幻想への憧れ(シルフィード)
  • 社会的責任
  • 個人的欲望

第6場|逃避

シルフィードに誘われ、ジェームズは結婚式を捨てて森へ逃げます。残されたエフィーは絶望し、グーンが慰めます。

第2幕|幻想の世界

第1場|森の中

深い森。シルフィードたちの住処。

シルフィードの群舞: 白いチュチュを着た精霊たちが、幻想的な踊りを展開。これは「白いバレエ」の原型となりました。

音楽的特徴:

  • ハープの多用
  • 木管楽器の繊細な響き
  • 弦楽器のトレモロ

第2場|ジェームズとシルフィード

ジェームズは、シルフィードと幸せな時を過ごしますが、彼女に触れることはできません。触れようとすると、彼女は逃げてしまいます。

象徴的意味:

  • 理想の到達不可能性
  • 芸術と現実の乖離
  • ロマン主義的憧憬

第3場|マッジの復讐

マッジが現れ、ジェームズに魔法のスカーフを渡します。

マッジの偽り: 「このスカーフを巻けば、シルフィードは永遠にあなたのものになる」

第4場|悲劇的結末

ジェームズがスカーフをシルフィードに巻くと、彼女の羽が落ち、死んでしまいます。

クライマックス:

  • シルフィードの死の踊り
  • 姉妹たちが亡骸を天に運ぶ
  • ジェームズの絶望

第5場|エフィーの結婚

遠くから、エフィーとグーンの結婚行進曲が聞こえてきます。すべてを失ったジェームズは、絶望の中で倒れ伏します。

音楽|シュナイツホーファーの幻の楽譜

作曲家ジャン・シュナイツホーファー

ジャン・マドレーヌ・シュナイツホーファー(1785-1852)は、パリ・オペラ座の専属作曲家でした。

音楽的特徴:

  • 初期ロマン派様式
  • 民族音楽の要素
  • 描写的な音楽
  • バレエのための機能的作曲

楽譜の復元

ラコットは、散逸していた楽譜を再構成しました。

復元された音楽:

  • 序曲
  • 第1幕の民族舞踊
  • シルフィードのライトモティーフ
  • 森の場面の音楽
  • 悲劇的終幕

スカラ座の演奏

指揮者: ケヴィン・ローズ オーケストラ: スカラ座管弦楽団

「19世紀の響きを現代の楽器で再現する挑戦」

振付の特徴|ロマンティック・バレエの美学

タリオーニ・スタイルの特徴

基本要素:

  • ポワントの詩的使用
  • 流れるような腕の動き
  • 前傾姿勢
  • 軽やかな跳躍

ラコット版の振付

第1幕の特徴:

  • マイムの重要性
  • キャラクター・ダンス
  • 写実的演技

第2幕の特徴:

  • 抽象的な美
  • 群舞の幾何学的配置
  • 超自然的な動き

スカラ座の解釈

現代的要素:

  • より高い技術レベル
  • 心理的深度
  • ドラマティックな表現

衣装と美術|19世紀の再現

衣装デザイン

ラコットによる時代考証:

  • 1830年代の正確な再現
  • 白いロマンティック・チュチュ
  • スコットランドの民族衣装

シルフィードの衣装:

  • 膝下丈の白いチュチュ
  • 透明な羽
  • 花冠
  • 素足(当時は革新的)

舞台美術

第1幕:

  • スコットランドの農家内部
  • 暖炉と窓
  • リアリスティックな装置

第2幕:

  • ロマン主義的な森
  • 霧と月光
  • 神秘的な雰囲気

キャスト|スカラ座のスターたち

2024年の主要キャスト

ラ・シルフィード:

  • ニコレッタ・マンニ(プリンシパル)
  • マルティナ・アルドゥイーノ
  • ヴィリディアナ・パッシーニ

ジェームズ:

  • クラウディオ・コヴィエッロ
  • ティモフェイ・アンドリヤシェンコ
  • マッティア・センペルボーニ

エフィー:

  • アリーチェ・マラングー
  • エマヌエラ・モンタナーリ

マッジ:

  • ミック・ズェーニ(男性が演じる伝統)

求められる資質

シルフィード役:

  • 超越的な軽やかさ
  • 詩的な表現力
  • 完璧なポワント技術
  • エーテル的存在感

ジェームズ役:

  • ロマンティックな情熱
  • 高い跳躍力
  • 演技力
  • スコットランド舞踊

他版との比較

ブルノンヴィル版(1836年)

相違点:

  • 異なる音楽(レーヴェンショルド)
  • より男性的な振付
  • デンマークの伝統
  • 結末の解釈の違い

共通点:

  • 基本的なストーリー
  • 2幕構成
  • 主要キャラクター

現代的解釈

マシュー・ボーン版などの試み:

  • ジェンダーの転換
  • 現代的設定
  • 心理劇的アプローチ

作品の意義|バレエ史における位置

ロマンティック・バレエの確立

『ラ・シルフィード』が確立した要素:

  1. 白いバレエの原型
    • 白いチュチュ
    • 超自然的存在
    • 幻想的な第2幕
  2. ポワント技術の芸術化
    • 単なる技術から表現手段へ
    • 重力からの解放
    • 精神性の表現
  3. 新しい女性像
    • 聖女的イメージ
    • 到達不可能な理想
    • 純粋性の象徴

後世への影響

影響を受けた作品:

  • 『ジゼル』(1841年)
  • 『白鳥の湖』(1877年)
  • その他多くのロマンティック・バレエ

観劇ガイド|スカラ座での体験

チケット情報

購入方法:

価格帯:

  • Palco(ボックス席):€200-300
  • Platea(平土間):€150-250
  • Galleria(ギャラリー):€50-150

劇場の特徴

スカラ座の魅力:

  • 1778年建造の歴史
  • 完璧な音響
  • 豪華な内装
  • ミラノの文化的中心

鑑賞のポイント

第1幕:

  • スコットランド舞踊の活気
  • ジェームズの心理的葛藤
  • シルフィードの最初の登場

第2幕:

  • 白いバレエの美しさ
  • 森の場面の幻想性
  • 悲劇的結末の表現

批評と評価

2024年制作への評価

批評家の声:

  • 「歴史的正確性と現代的感性の見事な融合」(コリエーレ・デラ・セーラ紙)
  • 「ニコレッタ・マンニは新時代のタリオーニ」(ダンツァ&ダンツァ誌)
  • 「スカラ座の伝統と革新」(フィナンシャル・タイムズ)

観客の反応

  • 若い世代からの支持
  • バレエ史への関心の高まり
  • SNSでの活発な議論

教育プログラム

スカラ座バレエ学校

『ラ・シルフィード』の教育的使用:

  • ロマンティック・スタイルの習得
  • バレエ史の実践的学習
  • 演技力の養成

一般向けプログラム

レクチャー・デモンストレーション:

  • 作品解説
  • 歴史的背景
  • 振付の実演

映像と出版

映像作品

スカラ座版(2024年収録予定):

  • 4K収録
  • 複数カメラアングル
  • ドキュメンタリー付き

関連出版物

  • プログラムブック(伊語/英語)
  • ラコットの振付ノート(復刻版)
  • 写真集

日本での上演可能性

過去の上演

日本でのラコット版上演:

  • 1985年:パリ・オペラ座バレエ来日公演
  • 2010年:ボルドー・バレエ来日公演

今後の展望

  • スカラ座バレエの来日公演
  • 日本のバレエ団による上演
  • 映像上映会の可能性

ラコットの遺産

2023年の逝去

ピエール・ラコットは2023年に91歳で亡くなりました。

遺したもの:

  • 30以上の復元作品
  • バレエ考古学の確立
  • 次世代への知識の継承

継承者たち

  • ヴィオレット・ヴェルディ(夫人)
  • 各国のバレエ団
  • 研究者・振付家

現代における意義

なぜ今『ラ・シルフィード』か

現代的relevance:

  1. 理想と現実の葛藤
    • SNS時代の幻想
    • 現実逃避の誘惑
    • authentic な生き方への問い
  2. 伝統の価値
    • 文化遺産の重要性
    • 歴史から学ぶこと
    • 継承の意味
  3. 純粋な美の追求
    • デジタル時代の身体性
    • 生の舞台芸術の価値
    • 一回性の体験

まとめ|永遠のロマンティシズム

『ラ・シルフィード』は、単なる古いバレエ作品ではありません。それは、人間の永遠のテーマ―理想と現実、愛と幻想、選択と後悔―を、最も純粋な形で表現した芸術作品です。

ピエール・ラコットが蘇らせ、スカラ座が新たな命を吹き込んだこの作品は、192年前のパリで起こった革命を、今日の観客に追体験させてくれます。マリー・タリオーニが初めてポワントで立ち、宙を飛ぶように踊った瞬間、バレエは地上から解放され、精神の領域へと飛翔しました。

『ラ・シルフィード』が教えてくれること:

  1. 芸術の永遠性
    • 時代を超える美
    • 普遍的な人間ドラマ
    • 伝統の生命力
  2. 選択の重さ
    • 現実か理想か
    • 安定か冒険か
    • 獲得と喪失
  3. 美の儚さ
    • 触れられない美
    • 消えゆく瞬間
    • 永遠の憧憬
  4. 文化の継承
    • 失われた芸術の復元
    • 新しい解釈の可能性
    • 未来への橋渡し

スカラ座の豪華な空間で、19世紀の音楽が響き、白い精霊たちが舞う時、私たちは時間を超えた旅をします。それは、ロマン主義の時代への旅であり、同時に私たち自身の内面への旅でもあります。

ジェームズが最後に理解するように、私たちも理解します―理想を追い求めることの美しさと危険性を。しかし、それでも人は夢を見続け、シルフィードを追い続けるのです。なぜなら、その追求こそが、人間を人間たらしめるものだからです。

ミラノの夜、スカラ座で『ラ・シルフィード』を観る―それは、バレエの原点に立ち返り、そして未来を見つめる、特別な体験となるでしょう。

白いチュチュが月光のように輝き、スコットランドの笛が響く時、あなたもきっと、あの森の中へと誘われることでしょう。そこで待っているのは、永遠の美と、避けられない悲劇、そして、それでも美しい人生の真実です。

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