はじめに|なぜ北欧最大の物語がバレエとして蘇ったのか
「人生とは、剥いても剥いても芯のない玉ねぎのようなもの」―ヘンリック・イプセンが『ペール・ギュント』で描いた人生の本質は、150年以上経った今も私たちの心を揺さぶり続けています。2024年、ノルウェー国立バレエは、この国民的戯曲を壮大なバレエ作品として再創造しました。
エドヴァルド・グリーグの有名な組曲だけでなく、新たに発見された未発表曲や現代ノルウェーの作曲家による新作を組み合わせ、フィヨルドの自然からトロールの洞窟、北アフリカの砂漠まで、ペールの波乱万丈な人生を3時間の舞台に凝縮。振付家ヨルマ・エロが、北欧神話と現代心理学を融合させた、21世紀の『ペール・ギュント』を生み出しました。
本記事では、オスロ・オペラハウスから発信される、この野心的な新作バレエの全貌を徹底的に解説します。
イプセンの原作|ノルウェーの魂
『ペール・ギュント』とは
1867年に発表されたヘンリック・イプセンの劇詩『ペール・ギュント』は、ノルウェー文学の最高傑作の一つです。
作品の特徴:
- 5幕構成の壮大な劇詩
- ノルウェー民話をベース
- 哲学的・心理的深度
- ファンタジーとリアリズムの融合
物語の本質
ペール・ギュントは、自己を見失い続ける男の物語です。
主要テーマ:
- アイデンティティの探求
- 真実と嘘の境界
- 愛の本質
- 人生の意味
グリーグの音楽
1876年、エドヴァルド・グリーグはイプセンの依頼で劇音楽を作曲しました。
有名な組曲:
- 『朝』
- 『オーセの死』
- 『アニトラの踊り』
- 『山の魔王の宮殿にて』
- 『ソルヴェイグの歌』
ノルウェー国立バレエの挑戦
カンパニーの歴史と特徴
ノルウェー国立バレエは、1957年に創立された北欧を代表するバレエ団です。
特徴:
- 北欧神話・伝説の舞台化
- 現代的解釈への意欲
- 国際的な振付家との協働
- オスロ・オペラハウスの本拠地
なぜ今『ペール・ギュント』なのか
制作の動機:
- ノルウェーのアイデンティティ再考
- 気候変動と自然観
- 現代の「自分探し」への共鳴
- 国際的発信の意図
ヨルマ・エロの振付|心理バレエの極致
振付家ヨルマ・エロ
フィンランド出身のヨルマ・エロは、心理描写に優れた振付家として知られています。
経歴:
- 1961年:フィンランド生まれ
- NDT、ボストン・バレエで活躍
- 心理的リアリズムの追求
- 北欧的感性の体現者
振付コンセプト
エロは『ペール・ギュント』を、現代人の心理劇として再解釈しました。
アプローチ:
- 内面の視覚化
- 夢と現実の交錯
- 象徴的身体表現
- 集団無意識の具現化
あらすじ|バレエ版の再構築
第1幕|若きペールの冒険
第1場|ノルウェーの村
19世紀ノルウェーの山村。母オーセと暮らす若者ペール・ギュントは、夢想家で嘘つき、村の厄介者です。
ペールのキャラクター(バレエ版):
- アクロバティックな動き
- 誇張されたマイム
- 子供のような無邪気さ
- 破壊的エネルギー
第2場|イングリッドの結婚式
村の結婚式に乱入したペールは、花嫁イングリッドを誘拐します。
群舞:
- ノルウェー民族舞踊ハリング
- 祝祭から混乱への転換
- ペールvs村人たち
第3場|ソルヴェイグとの出会い
純真な少女ソルヴェイグと出会い、ペールは真の愛を知ります。
パ・ド・ドゥ:
- グリーグ『ソルヴェイグの歌』による
- 純粋な愛の表現
- 北欧の光と影
第4場|山への逃亡
イングリッドを捨てたペールは、山へ逃げ込みます。
ソロ:
- 孤独と自由
- 自然との対話
- 内なる声
第2幕|トロールの王国
第1場|緑衣の女
山で出会った緑衣の女(トロールの王女)に誘惑されます。
官能的パ・ド・ドゥ:
- 異界への誘い
- エロティックな振付
- 人間と非人間の境界
第2場|山の魔王の宮殿
有名な「山の魔王の宮殿にて」の場面。トロールたちの狂乱の踊り。
大群舞:
- 40人のトロール
- グロテスクな動き
- 悪夢的ビジョン
- 圧倒的な音響
山の魔王の台詞(マイムで表現): 「人間は『自分自身であれ』と言うが、トロールは『自分に満足せよ』と言う」
第3場|脱出
ペールは正気を保ち、トロールの王国から脱出します。
追跡シーン:
- アクロバティックな逃走
- 照明効果による幻想
- 現実への帰還
第3幕|放浪の年月
第1場|オーセの死
年老いた母オーセのもとへ戻ったペール。貧困の中、母は死の床にあります。
感動的なパ・ド・ドゥ:
- 息子と母の最後の対話
- 幻想の橇の旅
- グリーグ『オーセの死』
- 静謐な死の表現
第2場|世界への船出
母の死後、ペールは富と名声を求めて世界へ旅立ちます。
港の場面:
- 船乗りたちの踊り
- 希望と不安
- 新世界への憧れ
第4幕|異国の地
第1場|モロッコの商人
北アフリカで奴隷商人として成功したペール。
オリエンタル・バレエ:
- ベリーダンス風の振付
- 豪華な衣装
- 退廃と富
第2場|アニトラの誘惑
ベドウィンの娘アニトラによる誘惑。
エキゾチックなパ・ド・ドゥ:
- 『アニトラの踊り』
- 官能と裏切り
- 砂漠の幻影
第3場|預言者ペール
ペールは自らを預言者と称し、精神病院に入れられます。
狂気の群舞:
- 患者たちの踊り
- アイデンティティの崩壊
- カオスと秩序
第5幕|帰郷と救済
第1場|難破
ノルウェーへの帰路、船が難破します。
嵐の場面:
- 波を表現する群舞
- 死との対峙
- 人生の総決算
第2場|玉ねぎの皮むき
浜辺に打ち上げられたペールは、自分の人生を振り返ります。
哲学的ソロ:
- 玉ねぎを剥く振付
- 自己の多層性
- 空虚の発見
第3場|ボタン職人との対話
死の使者「ボタン職人」が現れ、ペールを「作り直す」ために溶かそうとします。
死との踊り:
- 実存的恐怖
- 人生の意味への問い
- 最後の抵抗
第4場|ソルヴェイグの小屋
年老いたペールは、ずっと待ち続けていたソルヴェイグのもとへたどり着きます。
感動のフィナーレ:
- 『ソルヴェイグの歌』
- 無条件の愛
- 贖罪と救済
- 朝の光の中での浄化
音楽|グリーグを超えて
音楽構成
音楽監督エドワード・ガードナーによる革新的な音楽構成。
使用音楽:
- グリーグ『ペール・ギュント』組曲第1番・第2番
- グリーグの未発表曲・スケッチ
- 現代作曲家ラッセ・トーレセンの新作
- ノルウェー民謡の編曲
- 電子音楽の導入
オーケストレーション
ノルウェー国立歌劇場管弦楽団による演奏。
編成の特徴:
- 拡大編成(90人)
- ノルウェー民族楽器(ハーディングフェーレ)
- 電子音響との融合
舞台美術|北欧の自然と幻想
デザイナー:レイ・スミス
イギリスの舞台美術家レイ・スミスによる壮大なビジュアル。
コンセプト:
- ノルウェーの自然(フィヨルド、山、森)
- 表現主義的アプローチ
- プロジェクションマッピング
- 変形する装置
場面別美術
第1幕:
- リアリスティックな村
- ノルウェーの木造建築
第2幕:
- 洞窟の抽象的表現
- LED による魔法的効果
第4幕:
- 砂漠の抽象化
- オリエンタリズムの批判的表現
第5幕:
- ミニマルな浜辺
- 朝日の神聖な表現
衣装|伝統と革新
デザイナー:ブレグ・ベルゲ
ノルウェー人デザイナーによる衣装。
特徴:
- ブーナッド(民族衣装)の現代化
- トロールの革新的デザイン
- 変身・変化の視覚化
キャスト|北欧のスターたち
主要キャスト(2024年初演)
ペール・ギュント:
- 若年期:オスカー・プロトニコフ
- 中年期:同上
- 老年期:ジェンス・バルヒェン(character artist)
ソルヴェイグ:
- ギーナ・ストーム=ヤンセン
- 繊細で強靭な表現
緑衣の女/アニトラ:
- メリッサ・ハフ(二役)
- 変幻自在の演技
オーセ:
- ヨルン・ヒンデロー
- 母性の体現
山の魔王:
- アンドレアス・ハイセ
- 圧倒的存在感
初演の反響
批評家の評価
ノルウェー国内:
- 「国民的作品の決定版」(アフテンポステン紙)
- 「イプセンが見たら驚嘆しただろう」(ダーグブラーデット紙)
国際的評価:
- 「北欧バレエの新たな金字塔」(ガーディアン紙)
- 「心理と幻想の見事な融合」(ニューヨーク・タイムズ)
観客の反応
初演は15分間のスタンディング・オベーション。特に最終幕で涙する観客多数。
SNS の反響:
- #PeerGyntBallet がトレンド入り
- 若い世代からの支持
- 「人生について考えさせられた」
演出の特色|北欧的美学
自然との関係
北欧の自然観が全編を貫いています。
表現方法:
- 四季の移り変わり
- 白夜と極夜
- フィヨルドの雄大さ
- 森の神秘
心理描写
内面の可視化に成功。
手法:
- 分身の使用
- 影の効果
- 群舞による心理状態
北欧神話の要素
登場する要素:
- トロール(北欧の妖精)
- ドラウグ(死者の霊)
- ノルン(運命の女神)
技術的見どころ
ペール役の挑戦
要求される要素:
- 3時間の主役
- 年齢の演じ分け
- アクロバティックな技術
- 深い演技力
トロールの群舞
特徴:
- 40人の完璧な統一
- グロテスクな動き
- 人間性の否定
ソルヴェイグの純粋性
表現:
- 北欧的な内省
- 静の中の強さ
- 永遠の愛の体現
観劇ガイド
オスロ・オペラハウス
2008年オープンの美しい劇場。
特徴:
- フィヨルドに面した立地
- 屋根が歩ける設計
- 1,364席のメインホール
チケット情報
価格:
- NOK 195-895(約3,000-14,000円)
- 学生割引あり
- 公式サイトで購入
上演スケジュール
2024-2025シーズン:
- 11月:初演シリーズ(8公演)
- 2月:再演(6公演)
- 5月:シーズン締めくくり(5公演)
国際ツアー
2025年ツアー予定
訪問都市:
- コペンハーゲン(3月)
- ストックホルム(4月)
- ロンドン(5月)
- ニューヨーク(9月)
日本公演の可能性
2026年に招聘の打診があるとの情報。
教育プログラム
学校向けプログラム
内容:
- イプセン文学の理解
- ノルウェー文化学習
- バレエワークショップ
一般向けレクチャー
テーマ:
- 北欧神話とバレエ
- グリーグの音楽世界
- 現代心理学と『ペール』
映像化計画
収録予定
2025年2月の公演を4K収録予定。
配信:
- OperaVision(EU圏)
- Marquee TV(国際配信)
関連展示
イプセン博物館特別展
「ペール・ギュント:戯曲からバレエへ」
期間: 2024年10月-2025年3月 内容: 原作資料、衣装、舞台模型
作品の現代的意義
アイデンティティの問題
現代の「自分探し」に通じるテーマ。
現代的共鳴:
- SNS時代の仮面
- 本当の自分とは
- 承認欲求との戦い
環境と人間
北欧の自然観から学ぶもの。
メッセージ:
- 自然との共生
- 持続可能性
- 精神的豊かさ
愛の本質
ソルヴェイグが示す無条件の愛。
現代への問い:
- 待つことの意味
- 許しの力
- 愛による救済
他の『ペール・ギュント』作品との比較
演劇版
イプセン原作上演:
- より哲学的
- 言葉の力
- 5時間の上演時間
映画版
各種映画化:
- 視覚効果の活用
- リアリスティック
- 心理描写の限界
バレエ版の独自性
利点:
- 音楽との融合
- 身体による心理表現
- 幻想の視覚化
- 普遍的言語
専門家の分析
音楽学者の視点
「グリーグの音楽に現代音楽を融合させた手法は革新的」(オスロ大学教授)
文学研究者の評価
「イプセンの本質を損なわずに、新しい解釈を提示」(イプセン研究所)
振付評論
「ヨルマ・エロは北欧の魂を身体言語に翻訳した」(ダンス・ヨーロッパ誌)
まとめ|自分自身であることの困難と救済
ノルウェー国立バレエの『ペール・ギュント』は、150年前の物語を、驚くほど現代的な作品として蘇らせました。それは単なる古典の翻案ではなく、21世紀を生きる私たちへの問いかけです。
ペール・ギュントの旅は、現代人の旅でもあります。自己実現を求めて世界を放浪し、富と名声を追い求め、様々な仮面をかぶり、最後に気づくのは、自分の中に何もないということ。しかし、そんな空虚な人生にも、救いは用意されています。それは、無条件に愛し、待ち続けてくれる存在―ソルヴェイグです。
この作品が示すもの:
- 北欧文化の普遍性
- 自然との調和
- 内省的な美
- 神話的想像力
- 人生の本質
- 自己探求の旅
- 真実と虚構
- 愛による救済
- バレエの可能性
- 文学の身体化
- 心理の視覚化
- 文化の融合
- 現代への警告
- 自己喪失の危機
- 本質を見失う危険
- 帰るべき場所の大切さ
オスロ・オペラハウスで、フィヨルドを背景に踊られるこの作品は、観る者に深い感動と思索をもたらします。ペールが最後にたどり着く朝の光は、北欧の長い冬の後の春の光でもあり、人生の暗闇の後の希望の光でもあります。
「自分自身であれ」というメッセージは、シンプルでありながら、最も困難な課題です。しかし、『ペール・ギュント』は教えてくれます―たとえ失敗し、道を見失っても、愛があれば救われると。
ぜひ、この壮大な北欧の物語を、バレエという形で体験してください。それは、あなた自身の人生を見つめ直す、かけがえのない機会となるはずです。
グリーグの『朝』が響き、新しい一日が始まる時、ペールと共に、私たちも新しい自分に出会えるかもしれません。