ハンブルク・バレエ『ニジンスキー』完全解説|天才ダンサーの生涯を描いた20世紀最高の伝記バレエ

はじめに|なぜニジンスキーは「神」と呼ばれたのか

「私は神である」―精神を病んだ晩年のヴァーツラフ・ニジンスキーが日記に記した言葉です。20世紀初頭、彼の踊りを見た観客は、比喩ではなく本当に「神が降臨した」と感じました。重力を無視したかのような跳躍、人間離れした身体能力、そして役に完全に憑依する演技力。ニジンスキーは、バレエの歴史を永遠に変えた存在でした。

2000年、振付家ジョン・ノイマイヤーは、この伝説的ダンサーの生涯を『ニジンスキー』という作品に結晶化させました。ハンブルク・バレエのために創作されたこの作品は、単なる伝記的バレエを超えて、芸術と狂気、創造と破壊、愛と孤独という普遍的テーマを扱った、20世紀バレエの最高傑作の一つとなりました。

本記事では、ニジンスキーという人物の真実と、ノイマイヤーが描いた『ニジンスキー』の世界を、徹底的に解説していきます。

ヴァーツラフ・ニジンスキー|伝説の生涯

誕生から才能の開花(1889-1907)

ヴァーツラフ・ニジンスキー(ワスラフ・ニジンスキー)は、1889年3月12日、キエフでポーランド系の舞踊家の家庭に生まれました。両親ともにダンサーで、幼少期から舞踊の英才教育を受けます。

1898年、9歳でサンクトペテルブルクの帝室バレエ学校(現ワガノワ・アカデミー)に入学。その驚異的な跳躍力と音楽性で、すぐに注目を集めました。

学生時代のエピソード:

  • 教師たちは彼の才能に驚嘆
  • 内向的で友人は少なかった
  • 完璧主義者で練習に没頭
  • 1907年、首席で卒業

バレエ・リュスとの出会い(1908-1913)

1908年、マリインスキー劇場のダンサーとなったニジンスキーは、翌年、セルゲイ・ディアギレフと運命的な出会いを果たします。

ディアギレフとバレエ・リュス: セルゲイ・ディアギレフは、ロシアの芸術をヨーロッパに紹介する興行師でした。1909年、彼が組織した「バレエ・リュス」(ロシア・バレエ団)は、パリで空前の成功を収めます。

ニジンスキーは、バレエ・リュスの主役として、以下の伝説的な役を演じました:

『アルミードの館』(1909年)

  • パリ・デビュー作
  • 奴隷役で観客を魅了

『薔薇の精』(1911年)

  • ミシェル・フォーキン振付
  • 窓から飛び込み、飛び去る精霊
  • 伝説の跳躍シーン

『ペトルーシュカ』(1911年)

  • ストラヴィンスキー音楽、フォーキン振付
  • 操り人形の悲哀を表現
  • 演技力の頂点

『牧神の午後』(1912年)

  • ニジンスキー自身による初振付
  • 二次元的な動き
  • スキャンダラスな終幕

『春の祭典』(1913年)

  • ストラヴィンスキー音楽
  • ニジンスキー振付
  • 初演は大騒動に

結婚と追放(1913-1917)

1913年、南米ツアー中にハンガリー人女性ロモラ・デ・プルスキーと電撃結婚。同性愛者だったディアギレフは激怒し、ニジンスキーをバレエ・リュスから追放します。

結婚後の苦悩:

  • 経済的困窮
  • 創作の場を失う
  • 第一次世界大戦で敵国人として拘留
  • 精神的不安定さの増大

狂気への転落(1917-1950)

1917年頃から精神症状が顕著になり、1919年、スイスのサン・モリッツでの最後の公演を最後に、公の場から姿を消します。

最後の踊り(1919年1月19日):

  • 即興による踊り
  • 「戦争」をテーマにした狂気の舞
  • 観客は恐怖と感動で凍りつく

その後、統合失調症と診断され、残りの生涯を精神病院と療養所で過ごしました。1950年4月8日、ロンドンで死去。享年61歳。

ジョン・ノイマイヤーの『ニジンスキー』

作品の誕生(2000年)

アメリカ出身の振付家ジョン・ノイマイヤー(1939-)は、1973年からハンブルク・バレエの芸術監督を務め、数多くの傑作を生み出してきました。

創作の動機:

  • ニジンスキーへの長年の fascination
  • 20世紀バレエ史への敬意
  • 芸術家の内面を描く挑戦
  • ミレニアム記念作品として

作品の構造

『ニジンスキー』は2幕構成で、ニジンスキーの人生を時系列ではなく、彼の記憶と幻想の中で再構築しています。

登場人物:

  • ニジンスキー
  • ロモラ(妻)
  • ディアギレフ
  • ブロニスラヴァ・ニジンスカ(妹)
  • スタニスラフ(兄)
  • ニジンスキーの分身たち

音楽:

  • ショパン(ピアノ曲)
  • リムスキー=コルサコフ
  • ショスタコーヴィチ
  • シューマン
  • 現代音楽の断片

作品の革新性

ノイマイヤーの『ニジンスキー』は、従来の物語バレエとは全く異なるアプローチを取っています:

  1. 多層的な時間構造 – 過去と現在が交錯
  2. 心理的リアリズム – 内面世界の視覚化
  3. メタ・シアター – バレエの中のバレエ
  4. 引用と再創造 – 歴史的振付の再解釈
  5. 音楽のコラージュ – 多様な音楽の組み合わせ

あらすじ詳細|記憶の迷宮

第1幕|栄光と没落

プロローグ|第一次世界大戦の戦場

砲弾が飛び交う戦場。兵士たちの中にニジンスキーがいます。これは現実なのか、彼の幻想なのか。戦争のトラウマが、彼の精神崩壊の引き金となったことを暗示しています。

第1場|サン・モリッツの最後の公演

1919年、スイスのサン・モリッツ。ニジンスキーは観客の前に立っています。しかし、用意された演目ではなく、彼は即興で踊り始めます。戦争の恐怖、人類への警告、そして自身の内なる闇を、狂気じみた踊りで表現します。

妻ロモラは心配そうに見守り、観客は困惑と恐怖の中で凍りついています。

第2場|バレエ・リュスの栄光

記憶は1909年のパリへと飛びます。若きニジンスキーが『薔薇の精』を踊っています。有名な跳躍のシーン―窓から飛び込み、薔薇の香りを残して消える精霊。

ディアギレフが誇らしげに見守る中、パリの観客は熱狂します。この場面では、オリジナルの振付を尊重しながら、ノイマイヤー独自の解釈が加えられています。

第3場|『ペトルーシュカ』の悲劇

舞台は『ペトルーシュカ』の世界へ。ニジンスキーは操り人形ペトルーシュカとなり、人形使いに操られながらも、人間の心を持つ悲劇を演じます。

この場面は、ニジンスキー自身の人生の暗喩でもあります。ディアギレフという「人形使い」に操られながら、自由を求めてもがく芸術家の姿が重なります。

第4場|『牧神の午後』のスキャンダル

ニジンスキーが初めて振付けた『牧神の午後』。古代ギリシャのレリーフのような二次元的な動き、そしてスキャンダラスな最後―牧神がニンフのスカーフに欲情するシーン。

1912年の初演では、賛否両論の大騒動となりました。革新的すぎる振付は、保守的な観客には受け入れられませんでした。

第5場|ロモラとの出会いと結婚

南米への船旅。ハンガリー貴族の娘ロモラが、ニジンスキーに近づきます。言葉の通じない二人(ニジンスキーはポーランド語とロシア語、ロモラはハンガリー語とドイツ語)は、ダンスで心を通わせます。

しかし、この結婚がディアギレフとの決別を意味することを、ニジンスキーは理解していませんでした。

第2幕|狂気の深淵

第1場|家族の記憶

ニジンスキーの意識は、子供時代へと遡ります。ダンサーだった両親、そして悲劇的な運命を辿った兄スタニスラフ(精神を病んで若くして死去)。

家族の狂気の遺伝子が、自分にも流れていることへの恐怖。特に兄の幻影は、自身の未来を暗示するかのように現れては消えます。

第2場|『春の祭典』の創造と破壊

1913年、『春の祭典』の創作過程。ストラヴィンスキーの革命的な音楽に、ニジンスキーは原始的で暴力的な振付で応えます。

初演の大スキャンダル―野次、怒号、乱闘。しかし、これこそが20世紀芸術の夜明けでした。生贄となる乙女の踊りは、ニジンスキー自身の犠牲を予言しているかのようです。

第3場|ディアギレフとの別離

ディアギレフとの関係の終焉。芸術的パートナーであり、恋人でもあった二人の複雑な関係が、ダンスで表現されます。

支配と依存、創造と破壊、愛と憎しみ―すべてが絡み合った関係の中で、ニジンスキーは自己を失っていきます。

第4場|神との対話

精神病院での日々。ニジンスキーは神と対話していると信じています。「私は神である」という妄想の中で、彼は宇宙と一体化した踊りを踊ります。

看護師たち、医師たち、そして心配そうに見守るロモラ。しかし、ニジンスキーの意識は、すでに現実から遊離しています。

エピローグ|永遠の跳躍

最後の場面。老いたニジンスキーが、車椅子から立ち上がります。そして、若き日の姿となって、あの伝説の跳躍を見せます。

『薔薇の精』の最後の跳躍―窓から飛び出し、永遠の彼方へと消えていく。それは死への跳躍なのか、それとも不滅への飛翔なのか。

舞台に残されたロモラが、一輪の薔薇を拾い上げて幕となります。

音楽の多層性|時代を超えた音の織物

ショパンの使用

ノイマイヤーは、ショパンのピアノ曲を効果的に使用しています:

  • ノクターン – 内省的な場面
  • バラード – 劇的な展開
  • ワルツ – 社交界の場面
  • 前奏曲 – 移行部分

クラシック音楽のコラージュ

  • リムスキー=コルサコフ『シェヘラザード』 – バレエ・リュス時代
  • ストラヴィンスキー『春の祭典』『ペトルーシュカ』 – オリジナル作品の引用
  • ショスタコーヴィチ 交響曲第11番 – 戦争と革命
  • シューマン – 狂気のテーマ

現代音楽と音響効果

  • 電子音楽 – 精神崩壊の表現
  • 打楽器のみの場面 – 原始的エネルギー
  • 無音の使用 – 内的静寂

振付の革新性|ノイマイヤーの天才

歴史的振付の再構築

ノイマイヤーは、ニジンスキーの有名な役柄を再創造しています:

『薔薇の精』の再解釈:

  • オリジナルの跳躍を尊重
  • 現代的な流動性を追加
  • 夢幻的な要素の強調

『ペトルーシュカ』の人形振り:

  • ぎくしゃくした動き
  • 人間性の表出
  • 悲劇性の強調

『牧神の午後』の二次元性:

  • プロフィールでの動き
  • 彫刻的なポーズ
  • エロティシズムの暗示

ノイマイヤー独自の振付言語

心理的な動き:

  • 内面の葛藤を身体化
  • 分裂した自己の表現
  • 記憶の断片化

群舞の使用:

  • ニジンスキーの分身たち
  • 社会の圧力の表現
  • 幻覚の視覚化

主要キャストの挑戦

ニジンスキー役の要求

この役は、男性ダンサーにとって究極の挑戦です:

技術的要求:

  • 超人的な跳躍力
  • 完璧な回転技術
  • 柔軟性と力強さの両立
  • 3時間近い主役

演技的要求:

  • 若き天才から狂人まで
  • 多重人格の表現
  • 歴史的役柄の再現
  • 心理的深度

歴代の名演:

  • アレクサンドル・リアブコ(初演)
  • イワン・リスカ
  • ジョン・ノイマイヤー自身(若い頃)

ロモラ役

要求される要素:

  • 優雅さと強さ
  • 献身的な愛の表現
  • ドラマティックな演技力
  • パートナーリング能力

ディアギレフ役

キャラクター性:

  • 威厳と権力
  • 芸術への情熱
  • 複雑な愛情
  • マイムの重要性

世界での上演

ハンブルク・バレエ

ハンブルク・バレエでは、定期的に上演されるレパートリー作品です。

特別な上演:

  • 2000年:世界初演
  • 2010年:10周年記念公演
  • 2019年:ニジンスキー没後100年
  • 2020年:作品誕生20周年

世界のバレエ団での上演

招聘上演:

日本での上演:

  • 東京バレエ団(ガラ公演で抜粋)
  • ハンブルク・バレエ来日公演

衣装とセットデザイン

衣装デザインの特徴

ユルゲン・ローゼによる衣装は、時代考証と象徴性を兼ね備えています:

歴史的衣装の再現:

  • バレエ・リュス時代の豪華な衣装
  • 『薔薇の精』の有名な衣装
  • 『ペトルーシュカ』の人形衣装

象徴的な衣装:

  • 白い病院着(狂気)
  • 軍服(戦争)
  • 裸に近い衣装(原始性)

舞台美術

ミニマルでありながら効果的な舞台装置:

  • 可動式のパネル
  • 鏡の効果的使用
  • 照明による空間変化
  • 投影による背景

作品の意義|現代バレエの金字塔

バレエ史における位置づけ

『ニジンスキー』は、21世紀バレエの方向性を示す作品です:

  1. 伝記バレエの新たな可能性
  2. 心理劇としてのバレエ
  3. メタ・バレエの確立
  4. 歴史と現代の融合

芸術家の肖像として

この作品は、芸術家の本質を問いかけます:

  • 天才と狂気の境界
  • 創造の代償
  • 芸術と人生の関係
  • 不滅性への希求

観劇ガイド

予習のすすめ

  1. ニジンスキーについて学ぶ
    • 伝記を読む
    • 歴史的映像を見る
    • バレエ・リュスについて知る
  2. 音楽に親しむ
    • 使用される楽曲を聴く
    • 特に『春の祭典』『ペトルーシュカ』
  3. ノイマイヤー作品の特徴を知る
    • 心理的な振付
    • 物語の非線形構造

鑑賞のポイント

第1幕:

  • 時間の交錯に注意
  • 歴史的振付の引用を楽しむ
  • ディアギレフとの関係性

第2幕:

  • 狂気の表現
  • 家族の亡霊
  • 最後の跳躍の意味

座席選択

  • 全体を見渡せる中央席
  • 表情が見える前方席
  • 群舞の美しさは少し引いた位置から

映像作品

DVD/Blu-ray

ハンブルク・バレエ版(2016年収録)

  • ニジンスキー:アレクサンドル・リアブコ
  • 高画質収録
  • C Major

ドキュメンタリー

『ジョン・ノイマイヤーの世界』 作品創作過程を追った貴重な記録

関連作品と比較

他のニジンスキー作品

『Nijinsky』(2016年)

  • 振付:マルコ・ゲッケ
  • より抽象的なアプローチ

映画『ニジンスキー』(1980年)

  • ジョージ・デ・ラ・ペーニャ主演
  • ハーバート・ロス監督

ノイマイヤーの他の伝記作品

  • 『椿姫』
  • 『アンナ・カレーニナ』
  • 『タチヤーナ』

まとめ|永遠の跳躍へ

ジョン・ノイマイヤーの『ニジンスキー』は、20世紀最大のダンサーの生涯を、21世紀の視点から再構築した傑作です。それは単なる伝記ではなく、芸術家の本質、創造の意味、そして人間の限界と可能性を問いかける哲学的な作品です。

ニジンスキーの伝説的な跳躍は、単に物理的な高さの問題ではありませんでした。それは、人間の精神が到達しうる高みへの跳躍であり、同時に深淵への落下でもありました。

ノイマイヤーは、この矛盾に満ちた天才の生涯を、バレエという身体芸術でしか表現できない方法で描き出しました。言葉ではなく、動きで。理性ではなく、直感で。説明ではなく、体験で。

『ニジンスキー』を観ることは、バレエの歴史に触れることであり、人間の創造性の極限を目撃することであり、そして私たち自身の内なる狂気と天才性に向き合うことでもあります。

ぜひ、この作品を劇場で体験してください。ニジンスキーの最後の跳躍が、あなたの心に永遠に刻まれることでしょう。

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